箱根駅伝とライスボウル

お正月の1月3日といえば、箱根駅伝の復路の日で総合優勝が決まる一日で、テレビにかじりついている方も多いのではなかったかと思います。かく言う私も今年は観ていませんでしたが、毎年箱根駅伝は気にしています。

しかし、1月3日といえば、アメフトをしていた者にとっては、ライスボウルが最も気になるスポーツイベントだと言ってよいのではないかと思います。
ライスボウルとは、社会人王者と大学王者が東京ドームで戦う日本一決定戦です。そんなの社会人が勝つに決まっているじゃないか、と思われたかもしれませんが、現在の形式になった1983年から1990年までは学生の7勝1敗、その後は社会人が勝つようになりますが、1995年には母校京都大学が、2001年には関西学院大学が、2002年、2003年、2008年には立命館大学が、それぞれ社会人に勝利しています。その後は社会人の勝利が続いており、今年も富士通が日本大学に勝利しましたが、このように大学生が社会人に勝ってしまうようなスポーツはなかなかないのではないかと思います。これもアメリカンフットボールというスポーツの醍醐味ではないかと思います。ちなみに富士通のヘッドコーチ藤田智氏は大学の先輩で私の学生時代は京大のオフェンスコーディネーターでした。



箱根駅伝とライスボウルには同じ1月3日開催という他にも共通点を見つけることができます。

箱根駅伝は、何となく大学日本一を決める戦いのような感じがしてしまいますが、その実は関東の大学だけが参加できる関東の王者決定戦です。関西やその他の地域の大学には参加権すらない参加する権利が限定された大会です。

ライスボウルに出場できる大学王者を決めるのは、大学王者決定戦である甲子園ボウルですが、大学王者と言いつつ、実質は関東王者と関西王者の戦いです。現在では、変則的なトーナメント制となっており、関東と関西以外の地域の大学で勝ち上がったチームも甲子園ボウルへの道が開かれていますが、未だ実力には格段の違いがあり、甲子園ボウルへ至ることは容易ではありません。私の現役時代はその道すら開かれていませんでした。

箱根駅伝が関東の大学だけの大会であることには賛否両論あり、100回記念大会には関東以外の大学にも出場権を認める方向で検討しているようです。
「形式的平等」といえましょうか。

法律の世界には、「形式的平等」と「実質的平等」という概念があります。例えば、100メートル走をするのに、オリンピックに出場するような選手と小学生を同じスタートラインに立たせて走らせるのが「形式的平等」。小学生にハンデを与えて勝負になるように調整するのが「実質的平等」です。

「形式的平等」と「実質的平等」は、どちらが正義でどちらが正義にもとるかといった単純な話ではありません。あるシチュエーションでは「形式的平等」が正義であるが、別のシチュエーションでは「実質的平等」が正義であるということがあり得ます。

現在、アメフトの大学王者決定戦甲子園ボウルへは、関東と関西の以外の大学にも出場権がありますが、西日本の場合でいえば、関西二位とその他の地域から勝ち上がったチームが戦い、勝った方が関西一位と戦うという制度になっています。単純なトーナメント制ではなく、関西の力が基本的には「上」であることを前提とした「実質的平等」を確保しようとした制度となっているわけです。ですが、実際は、関西二位がその他の地域から勝ち上がったチームに勝つのが常態化しており、関西二位と関西一位が甲子園ボウル出場を懸けて再戦することになっています。今年は、関西一位の立命館が、関西二位の関学と再戦し、関学が立命に勝って甲子園ボウル出場を決めました。
なるほど「実質的平等」をしようとしていますので、負けた立命館は文句を言えないのですが、これが本当に「平等」であるかについては、再考の余地があるように個人的には思っています。リーグ戦で優勝しても、ライバル校相手にもう一度勝利しなければ甲子園ボウルへ行けない制度となっており、学生スポーツであること、リーグ最終戦から甲子園ボウルまでの準備期間等を含めて、無理のある制度設計になっているのではないかと思います。

私は大学陸上に精通しているわけではありませんので、箱根駅伝の全国化について云々できる知識を持っていませんが、これが本当に「平等」であるかについての検討は必須ではないかと思います。



大学時代に全人格をかけてスポーツに取り組んだことは、その結果を含めてその後の人生に大きく影響を与えると思います。制度設計をされる方は、本当の「平等」の観点を忘れずに行って欲しいと切に願っています。

朝日新聞からお借りしました
(朝日新聞からお借りしました)