子どもをラベリングしない

子どもも一人の人間です

プロフィール欄にも書いていますが、僕は、弁護士になってからずっと、子どもの権利に関わる活動をしてきています。



もともとは司法浪人時代、児童虐待のニュースに触れる度に

子どもが最も愛されたいと思う、世の中で最も信頼している親から拒絶され、否定され、最悪の場合命を絶たれるなどということはあってはならない。
どうすれば児童虐待はなくせるのか。弁護士となった際には、児童虐待に関わる仕事をしよう。

と思っていたのがきっかけです。



そして考えていたとおり、弁護士となり、弁護士会の子どもの権利委員会に入り、当初は、児童虐待を扱う児童福祉部会に所属し、児童相談所からの相談を受けたり、京都で子どもシェルターを創設する活動に加わったりしました。

訳あって現在は少年非行を扱う付添人司法制度部会に所属し、少年事件との関わりで子どもの権利に関する活動をしています。



加えて、昨年度までの2年間、「大津の子どもをいじめから守る委員会」(以下「守る委員会」といいます)という常設の第三者委員会の委員を、臨床心理士、臨床発達心理士、大学名誉教授、滋賀弁護士会の先生方と務めさせてもらいました。

守る委員会は、大津市内の公立の小中学校でのいじめ案件に関する相談対応や制度改革への提言を役割としており
(現実にはその機能を十分に果たすことが制限されていて、大津市のいじめ行政にとってとても大きな問題であると思っています。)
委員を務める中で、学校教育現場についても垣間見えてくるものがありました。

そのことについて書きたいと思います。




現在、「発達障害」という言葉を聞いたことがないという人は、いないのではないかと思います。

しかし、僕が小学校や中学校のころ(30年ほど前)、「発達障害」などという言葉が使われることは、あったのかもしれませんが今のように一般的ではなかったと思います。

かく言う僕も、現在であれば、「発達障害」の診断を受けているのではないかと思うふしがあります。

守る委員会で審議される事案に出てくる「発達障害」の診断を受けたという子どもさんの行動と、子ども時代の僕の行動がさほど変わらなかったりするからです。
これは委員会の中でも度々述べていました。

現在は
「発達障害がある」からそういうことをするのだ
あるいは、「発達障害がある」から他の子とは異なる配慮をする
と定型化され、「その子そのもの」を見てもらいにくくなっているように感じています。



随分息苦しい世の中になったなあ、と思います。

僕が子どものころは、学校も社会も、もっと寛容だったのではないかと思います。
僕の小学校や中学校の先生たちは、もっと「その子そのもの」を見てくれていたように思います。



守る委員会でご一緒させていただいた兵庫県臨床心理士会の会長も務めておられる羽下大信先生も、事ある毎に、「発達障害」などという概念を持ち出す必要はない、大切なのはその子がどんな援助を求めているかだ、と言っておられました。

僕自身そのように感じてきていたし、対人援助職のプロ中のプロの先生がそのように言われることで、やはり間違っていなかったと思いました。




子どもがこうやってラベリングされることで、その子どもの親御さんもまた、苦しい思いをされることが多いと思います。

学校教育現場や社会が、「発達障害」と一括りにしてしまい、「その子そのもの」のよさも捨象してしまうからです。

もちろん、育てにくさを抱えてこられた親御さんが、「発達障害」との診断を受けることで、ある種の納得感や安心感を得られるということもあるかと思います。

しかし、僕がご依頼いただく事件などでも、子どもさんが「発達障害」の診断を受けたということで、親御さんや子どもさんの意思とは無関係にレールが敷かれてしまったことに苦しんでおられるケースが多々あります。




今の学校教育現場や社会の「発達障害」の子どもへの関わりは、子ども一人一人の可能性を狭める方向に向かっていると思えてなりません。

子ども一人一人をのびのびと、可能性をぐんぐん伸ばしていってあげるように、大人一人一人が関わっていきたいですね。