スポーツの中にある武士道に美しさを見る(後編)

昨日書いた、スポーツの世界における派手なガッツポーズやパフォーマンスは美しくないのではないか、という持論の続きです。

これはあくまで、曲がりなりにも大学まで体育会系スポーツ部に所属してスポーツに打ち込んだ上での私の個人的な考え方であって、様々な考え方があることは当然承知の上です。




2017年大学アメフトにおいて、日本大学が躍進し、大学王者となったことは以前書きました。今シーズンの日大フェニックスは、「勝っても負けても淡々としたチームであった」と聞きます。

日大フェニックス
(画像は朝日新聞電子版より)

日大フェニックスと言えば、全盛期の監督であった故篠竹幹夫氏が「侍フットボール」を標榜しており、「勝っても負けても淡々と」という武士道にも通ずる姿勢は、日大フェニックスの伝統です。

今年の日大フェニックスは、久々にその伝統が復活したチームだったのではないでしょうか。




私の大学現役時代も、監督やコーチから、「一喜一憂するなよ」とよく言われたものでした。しかし私自身、それがどれほど出来ていたかというと、全くと言っていいほど、出来ていませんでした。インターセプトしたときなどよいプレーが出来たときは派手なガッツポーズを取って喜んでおりました。
これは裏返すと、自分の気持ちをコントロール出来ていない、ニュートラルな状態から簡単に外れてしまうということで、感情の浮き沈みが激しいことを意味すると思います。このことは、反対に悪いプレーをしたときは、簡単に落ち込んでしまうといことに繋がります。実際私はそうでした。

また、派手なガッツポーズなどをすることは、別の見方をすると、そのように派手にアピールしないと自分という存在を示せないと考えているのではないかと思います。



このように自分の感情をコントロールできていない姿は、美しいと言えるでしょうか。必死に自分をアピールする姿は美しいと言えるでしょうか。
むろん、美意識は人それぞれでしょうから、美しいと感じられる方もいることでしょう。

しかし私は、自らのことも顧みて、やはり、スポーツの世界では、一喜一憂しない、勝っても負けても淡々としている姿こそが美しいと感じます。そのような姿であるためには、それまでの練習で自らをとことん追い込み、自分を克服してきたこと、その結果、自分の感情をコントロール出来ているであろうこと、人から評価を得るためにプレーをしていないことが垣間見えるからです。





仕事をしていく上でも、一喜一憂しない、常に淡々としているようでありたいと思っています。

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