DB's PRIDE③

DB's PRIDE

大学浪人中の甲子園ボウルを観て、入学後はギャングの門を叩くと決めた僕。期待と不安を胸に、大して勧誘も受けることもなく、自らギャングの練習場所である農学部グラウンド、通称「農G(のうジー)」へ。
グラウンドでは、テレビで観たあんな先輩やこんな先輩が練習しています。

ちなみに僕は、このときまでに、ギャングの選手紹介などを内容とするクラブのパンフレットであるイヤーブックを穴の空くほど見て、先輩方のお名前や身長体重、出身高校、高校時代のクラブなどを研究していました。167cmと身長が低く、高校まで野球しかしていないさして運動能力が高くない僕が、ギャングで通用するのか不安だったからです。
しかし、イヤーブックを熟読したからといって、通用するかどうか分かるはずもなく、最終的には行ってみな分からんのやし、やってみてあかんかったら他のことしたらええわ、と思って行きました。

新入生は、僕も含め「お客さん」として扱われ、簡単なことができただけで、ものすごく褒めてもらえました。そうしているうちに、自分はもしかしたらアメフトの才能があるのではないかと思うようになりました。僕のように自主的に練習に来た者だけではなく、強引に勧誘された者も、こうしてクラブに定着するようになり、1回生の間は、同学年は60〜70人はいたのではなかったかと思います。
どんな大学スポーツでも、上回生になるにしたがって責任が重くなるものだと思いますし、ギャングも例外ではなく、上回生になるに連れてそれに耐えられずやめて行く者が相当数います。僕の学年も最終的には20数人になりました。

新入生入りたてのころ、具体的に何をしていたかはっきり覚えていませんが、未経験者には一通りのことをやらせてみて適正を見る、という感じだったと記憶しています。アメフトというスポーツは、オールマイティである必要はなく、パスを取るのが上手い、ボールを持って走るのが上手い、ボールを扱うのは不得手だが身のこなしが上手い、とにかく体だけは大きいということでも、何か特性があればできるポジションがあります。ボールを扱うのがあまり上手くなく、体は小さいが身のこなしがある程度できた僕は、早い段階でDBに配属されたように思います。このときから、僕のDB人生がスタートしたわけです。

DBの当時のユニットは、4回生に、甲子園ボウルでスターターで出ていたFS(フリーセイフティー)田中亘さんとSS(ストロングセイフティー)高村さんに、CB後藤勉さん、3回生に、これも甲子園ボウルでスターターで出ていたCB中谷さんに、翌年大学オールジャパンとなるSS白井さんとキッキングチームを引っ張っていたCB佐々木純さんがおられました。5回生コーチが、甲子園ボウルスターターだったCB和田さんとFS福井さん、CB高樋さんでした。
和田さん、中谷さんは甲子園ボウルでインターセプトをしており、田中亘さんや高村さんもタックルを決めまくっていたので、僕は正にスターを見るように先輩方を見ていたのを覚えています。

1回生のときDBに何人配属されたか覚えていませんが、最終的に4回生でDBとして残ったのは僕1人でした。同じくDBに配属されたNとは今でも連絡を取り合いますがNは3回生の春で、Tは1回生の途中からFSとしてスターターで試合に出るようになったスーパーアスリートでしたが、2回生の春に、それぞれ部を後にしました。彼らが残っていたら、4回生のときにどんなDBユニットになったろうか、と考えることがあります。彼らは僕より身長も高くアスリートでしたから、僕がスターターになることはなかっただろうという以外、想像は進まないのですが。

そうして始まった僕のDB人生。次へ続く。