「文武両道」について思うこと

野球場

夏の高校野球が始まりました。
そんな中、勝敗とは別に、「文武両道」を実践したとする彦根東高校と、反対に「文武両道はあり得ない」と下関国際高校の監督が発言し、それに対し、タレントの武井壮さんが反論した、ということが話題になっています。
高校時代に硬式野球部に所属していた身として、今日は、「文武両道」について考えてみたいと思います。

「文武両道」とは、一般的には、学生で、学校の成績もスポーツもどちらも秀でていることを指していると思います。そして、「文武両道」は素晴らしいことだ、ともてはやされる傾向があるように思います。
「文武両道」がよしとされるのは、もともとは「平家物語」にも登場するように日本人の価値観に深く根付いていることの他に、高校野球に代表される「勝利至上主義」へのアンチテーゼであるように思います(「勝利至上主義」については、また追って書きたいと思いますので、ここでは触れません。)。

ところで、「文武両道」とは一体どういうことなのでしょうか。とりわけ「文」とは学校の成績のみを指すものなのでしょうか。私は違うように思います。「文武両道」の元々のルーツに遡ってみても、「平家物語」に「あっぱれ、文武二道の達者かな」という言葉が出てくるようで(Wikipediaより)、学校の成績のことを指していないことは明らかです。
私は、学校の授業というのは、基本的に受験に必要な知識を提供しているものであって、学校の成績がよい、というのは、受験勉強に向いているという一つの能力を示しているに過ぎないと考えています。
それは、「武」ではない「文」の一つの表れに過ぎないのであって、「文」に秀でていることの唯一の指標ではないと思います。
絵を描くことが非常に上手いこと、歌を歌うことが非常に上手いことなどはもちろん、ものすごい読書家であることなども、「文」に秀でていることだと思います。

つまり、「学校の成績」という一つの事柄だけを捉えて、彦根東高校は「文武両道」を実践したとか、下関国際高校の監督の発言が正しいとか間違っているとか論ずること自体が、「文武両道」という言葉に踊らされているように思えてなりません。

学校は教育の場であり、高校野球をはじめとする部活動も教育の一環であることは疑いようもない事実です。そして、教育とは、学問の提供だけではなく、人間教育も含むはずです。人間教育は「個人対個人」でなされるものであって、生徒一人一人が求める教育は異なり得ます。

教育という観点から見るとき、「文武両道」だからすごいのではなく、甲子園に出場できたからすごいのではなく、甲子園に出場するために過ごした時間の中で、生徒一人一人がいったい何を獲得したのかが問われるべきだと思います。甲子園に出場すること自体は、野村克也氏が「勝ちに偶然の勝ちあり。負けに偶然の負けなし」と言われているように、様々な偶然の要素が作用し得ることだと思います(全く手が届かなかった私が言うべきではないかもしれませんが。)。「甲子園に出場して活躍できたのはいいが、その後の人生では何もいいことがなかった」というのでは、何をしていたのか分かりません。その後の人生の方がよっぽど長いのですから。
高校野球の監督をはじめ部活動の指導者は、生徒一人一人に何を残せたのかが問われるべきであり、甲子園に出場できたから成功ではないはずです。
その意味で、私は、報道されている下関国際高校の監督の発言に違和感があります。同高の選手たちが、生きていくために大事なものを獲得できており、今後の人生を歩んで行ってくれることを願ってやみません。